INSTINCT MACHINEGUN

ポケモン好きのサンガサポ。夫はセレッソサポのパンダ氏。ゆるすぎる観戦記やら旅行記やら。

映画「レ・ミゼラブル」を観た

またまた久々のブログです。
今回は映画の感想というか考察というか。


★★ここからネタバレを含むのでご注意ください。★★


この年末年始に、映画を計3本みました。
「ワンピースフィルムZ」と「ホビット」と、この「レ・ミゼラブル」。
ホビットとかはもうずっと前から楽しみにしてて、始まった瞬間「ありがとうピーター・ジャクソンありがとう」と涙すらでてきたのですが、
今回いろいろ考えさせられたのはレミゼの方でした。
ホビットは好きすぎて逆にもはや語ることがないし、まだまだ続くので・・・)


私とこのお話の出会いは幼稚園の頃で、
おそらく当時の園長先生の趣味だったとしか思えないんだけど(笑)
年長さんの頃、何日か(何か月か?)にわたって、「ジャン・バルジャンのお話」として
「ああ無情」の紙芝居を見る時間というのがありました。
(うろおぼえだけど、この紙芝居は模造紙くらいの大きさに描かれていて、先生の手作りだったはず。)
今思うと変わった幼稚園だったなーと思います。
(ちなみにここ↓だったんですけどね。)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1170800861
http://www.aoba.ed.jp/


で、大人になって、すっかりジャン・バルジャンは記憶の彼方へ行っていたのですが、
去年、たまたま舞台版レミゼの特集を見て、
(たしか被災地支援について特集されていた)
「民衆の歌」にすごく惹かれたのもあって、ぜひ今年の公演を見てみたいと思ったりしてました。
そんな中、一足先に映画が公開されるとのことで足を運んだわけです。


いやー、しかし、こんなにキリスト教色が強い物語だとは思っていなかった。


私はご存じのように(ご存じではないかもしれないけれど)
ジーザス・クライスト・スーパースター(JCS)」がすごく好きで、
ハマりすぎてキリスト教についていろいろ調べたり、
エスの受難劇やユダの裏切りについて描いた小説を読んでみたりしているので、
特にそういう面から興味深く観ていました。


最後なんかもう明らかに「神の国万歳!」って感じだったしね(笑)
(余談だけど、私は最後が「民衆の歌」で終わるということは知っていましたが、
 ああいう場面だとは知らなかったので、あそこでものすごくグワッと心を揺さぶられて、ものすごく涙が出てきました。)


というか、ジャン・バルジャンがあまりにあっさり改心しててぶったまげましたw
これはミュージカルという特性上、改心に時間をかけてはいられないからか・・・?とも思ったり。
でも、映画を見ていくうちに、この作品で描きたかったのは


「改心をするまでの過程」ではなく、
「悔い改めた後に何をするか、どう生きるか」なのだ


ということに気づきました。


それが如実に表れているのが、ジャベール警部の最期ではないかと思うのです。


まるで「性善説」と「性悪説」が生身の人間となって対決しているかのような
バルジャンとジャベールのやりとり。
どちらも神を信じ、自分の行為は神のためのものだと信じ切っています。


この作品の解釈において、「ジーザス=バルジャン」、「ユダ=ジャベール」というのは
もはや定説になっているようですが
(というかこれだけキリスト教的な作品だから、みんな気づくんだろうなぁ)
私もジャベールが「自分の行為に後悔し自殺した」時点で、
「ああ、この人はユダだ」と思いました。


個人的には、バルジャンはジーザスではなくペテロという印象だったのだけれど・・・。
ジーザスとして、囚人だった過去を捨てて「復活」したバルジャンは、
その後もいろいろと葛藤を抱えながら生きていくんですけど
(たとえばコゼットを若い男になんか渡したくない!と思ったり)
そうやって、聖人になれず苦悩する姿はむしろ、ペテロに近いなと思ったのです。


ジャベールの自殺のシーンで、その考えはいっそう強くなりました。
銀の燭台の事件を経て改心し、心から悔い改めたバルジャンは、
ジーザスを3度否認した後のペテロと重なります。
バルジャンは、悔い改めて前へと踏み出し、神の赦しを得つつ、生きていきます。
ペテロはその後、キリスト教会の中心となっていく人物です。
ここで重要なのは、バルジャンが「生きていく」ということ。


いっぽう、ジャベールにも、同じように自分の行為を悔いる瞬間が訪れます。
しかし、彼がそこで選んだのは、悔い改めではなく「自殺」。
ユダと同じ道を選んでしまったジャベールは、ペテロにはなれなかったのです。


この作品の中で、「善」と「悪」とは非常にゆらいでいるのではないかと思います。
たとえば、バルジャンは改心はするものの、「元囚人」という過去を断ち切ることができず、
市長になった後も、(故意ではないにしろ)ファンテーヌの人生を変えてしまうなど、新たな罪を作っていきます。
コゼットを守る・・・という大義名分があるにせよ、彼は脱獄囚のままなわけで。


いっぽう、ジャベールも、神の名のもとに職務を全うしていると信じ切っているわけですから、
完全に「悪」とは言い切れません。
(余談ですが、バルジャンがジャベールに「君は職務を全うしただけだ」というシーンは、
 ジーザスが裏切ろうとするユダに「しようとしていることを、今すぐしなさい」という場面と重なります。)
そもそも、「ユダ」とされているジャベールですが、
こんなに神に忠実な様子が描かれている時点で、
明らかに悪意を持った人物という意図では描かれていません。
(たとえばJCSはユダに好意的な解釈で作られた作品ですが、
 通常のキリスト教的な考え方では、ユダはただの根っからの悪人です。)


バリケードを作った学生たちだって、
革命のために立ち上がったわけですけれども、相手軍の人々を容赦なく殺しているわけで、
それって「善」なのか?という疑問がわいてきます。


ガブローシュも、あんな小さいのに殺されて可哀想なんですけれど、
ガブローシュ本人は、おそらく子ども扱いされることは嫌っていたはずで、
立派な革命軍の一人として死んでいったことが、真の意味で「悲劇」であったとは言い切れないのでは。


彼らは倫理的には「善」なのか、それとも「悪」なのか
ちょっとやそっとでは判断できません。
(たしかに、キリスト教にも十字軍のような「聖戦」の観念や「殉教」の観念は存在しますが。)


しかし、ひとつだけはっきりしていることは、
ジャベールは、その本性が善か悪に関係なく、
ただひとり「敗北」している、ということです。


バルジャンが正義なのか、ジャベールが正義なのか。
少なくともこの戦いには、ジャベールが「自殺」したことによって答えが出されています。
前述のユダとも絡み、「自殺」はキリスト教徒最大のタブーだからです。


極端な話、キリスト教では「悔い改め」た者はみな救われます。
もしかすると、人殺しを犯した人物だって、赦されるかもしれません。
しかし、「自殺」だけは、神から決して許されない大罪です。
(神が与えたもうた命を自ら粗末にする上、悔い改める機会が二度と来ないからです。)
それゆえ、ジャベールは「敗北」しているのです。


この作品で、幸せな人生を送った(送るであろう)登場人物はほんの一握りです。
たしかに、みな愛にあふれ、使命に燃えていますが、
ファンテーヌは結局、コゼットとも再会できず、薄幸なボロボロの心身状態で死にます。
エポニーヌは、その片思いがかなうことなく、銃弾に打たれて死んでいきます。
(マリウスに看取られて穏やかに死んでいきましたが、それでも片思いであったことには変わりありません。)


アンジョルラスたちも、結局民衆からの助けは得られず、死んでいきます。
(彼らが死んでも、民衆たちは「みんな死んでしまった」と言いながら、血を洗い流し、清掃するだけです。
 そこから学生たちのために、新たに蜂起しようとする者はいません。)
むごい言い方をすれば、彼らは犬死にです。


かれらは「この世」では、決して幸せにはなっていません。
しかし、愛を与えあい、力にし、彼らは最後まで、力の尽きるまで生き続けた。


最後の場面で、そんな彼らは神の国に迎え入れられ、力強く歌っています。
何が善で、何が悪か、というのは、ここでは関係ありません。
何があっても、最後まで力を振り絞って、愛を与えあって生きた。
それこそが「勝利」として描かれます。
それが彼らと、自殺して「途中リタイア」したジャベールの差なのではないでしょうか。


こう考えると、バルジャンを演じるのが、過去にJCSでジーザスを演じた
山口祐一郎さんと金田さんのダブルキャストだということに
非常に感慨深いものを感じていたのですが・・・
山口さん降板したんですね・・・残念。


映画を1回みただけなので、物語について認識の違いなどがあったらすみません。
現在Amazonで原作(安心と信頼の岩波文庫)を注文中なので、またじっくり読んで、いろいろ考えてみたいです。