INSTINCT MACHINEGUN

ポケモン好きのサンガサポ。夫はセレッソサポのパンダ氏。ゆるすぎる観戦記やら旅行記やら。

ガウディ×井上雄彦 -シンクロする創造の源泉-


兵庫県立美術館にガウディ×井上雄彦展を見に行ったのですが、けっこう心を動かされたのと、あまり「井上雄彦(漫画)」の面からこの展覧会の感想を書いてるブログ等を見つけることができなかったので、自分が感じたことや考察やらをまとめときたいなーと思いつつ久々にブログを更新します。


ちなみにネタバレしまくりなので、ご注意くださいますよう……。


GW中に行ったのですが、そこそこ人は多かったけれど混雑というほどではなかったです。入場待ちもなかったし。
まぁ、鳥獣戯画展とかを体験してるとたいていの展覧会は混雑に入らなくなるんですが…。


個人的な印象として、井上雄彦が好き、というよりガウディが好きで来ていたお客さんが多いような気がしました。
展示を見ているときも、けっこう皆さん漫画の部分を見るペースが早くて、え、私もう少し細かい筆のタッチとか見たいんだけどうわあああという感じで流れに巻き込まれて、心行くまでじっくり……とはいきませんでした。
と思えばガウディ関係の展示(図面とか)の前は牛歩だったり。
まぁこれは部屋の前半部が井上雄彦、後半部がガウディという構成だったのも要因として大きいと思うんですけどね。(部屋の後半の方が往々にして混むので)
展示もパッと見、ガウディが主で、そこに井上雄彦が添えてある感じ。
説明文とかガウディにしかついてないしね。イノタケさんの漫画がガウディ展示の導入部になっている感じ。


でも、イノタケさんの漫画や絵をじっくり見ていると、ガウディを通じて、そこに「井上雄彦らしさ」が表れていることに気づく。
この展覧会の英題は「Takehiko Inoue interprets Gaudi's Universe」――「井上雄彦がガウディの世界を解釈する」とでも訳せばいいだろうか。
主題となってるのはあくまでガウディだけど、「解釈」を交えることによって、漫画の背後にイノタケワールドが見えてくる。


たとえば冒頭の少年ガウディ。
わたしはこの一連の漫画を見て、「あ、これバガボンドと同じテーマだ」と率直に思った。
リウマチの痛みに耐えつつ、そこにある「骨」の存在を感じ、「そんなふうにできてる」と納得する少年ガウディの姿。
木を見上げて、その葉っぱをじっと見つめる。
これ、まさに、剣の道を極めようと、とことんまで自分の体と向き合い、山や自然を「師」ととらえる「バガボンド」の武蔵の姿じゃないか。


武蔵だけじゃない。海を自分のルーツとする小次郎。もし死んだら木になりたいと願う辻風黄平。
バガボンド」の登場人物の生き方や考え方には、往々にして自然への畏敬の念が溢れている。
この少年ガウディが、仮にバガボンドの物語中に登場しても、それほど違和感はないのではないか、と私は思う。


これはガウディを描いていると見せかけて、そこにガウディではなく、井上雄彦本人の思想が無意識に滲み出ているのか。
それとも、ガウディと井上雄彦は元々似たような思考を持っていて、それを感じ取った主催者が今回のコラボレーションを提案するに至ったのか。
私にはどちらかわからないし、もしかすると「pepita」シリーズを読むとその答えが書いてあるのかもしれないけど(まだどれも読んだことがない)この少年ガウディとバガボンドの奇妙とも言える類似は、すごく興味深かった。
私がとりわけバガボンド好きだからそう感じるのかもしれないけれど…。


一見、ガウディがメインのようだけど、そこに井上雄彦がいつも描いてきた世界が確かにある。
そう考えると、「ガウディ>井上雄彦」にしか見えなかった展示が、「ガウディ≧井上雄彦」くらいの比率に見えてくるから不思議だ。
あと細かいことだけど、漫画の文字が横書きなのがスペインを意識してるなと思った(笑)


青年ガウディの感想も少年時代と似てるので割愛して。
最後の老年ガウディにはなんかこう、ぐっと心を揺さぶられるものがあった。


「だがもしも もしもそうでなかったとしたら」―――。


この言葉の重さ。
漫画の中ではガウディが言っている台詞だけど、これはサグラダファミリアの建築に関わる人、サグラダファミリアを目にする人、誰もが心のどこかで感じている「不安」と呼べるものだ。
そして、この展覧会に挑む井上雄彦自身の「不安」もここに含まれてるのではないかと思う。
自分の描くガウディは、果たして正しいなのか。「こんなはずではなかった」と思われやしないか――。
あえて「負」の内容に触れることで、ガウディの、そして井上雄彦の、あらゆる人の思いがまさに「シンクロ」していて、自分もその「あらゆる人」のひとりで、そのことに私は感動してしまった。


サグラダファミリアが影だけで表現されてるところもとても素敵だと思った。
「Casa BRUTUS」にこの部分のネームが載ってたけど、ネーム時点では入れていた「まだまだ完成には遠い」という言葉が省かれている。このサグラダファミリアは完成形なのか、そうではないのか。どの段階のサグラダファミリアをガウディが見たのかわからない点もニクい演出だなぁ、と思ったり。
サグラダファミリアを見上げるガウディの表情を見て、ちょっと泣きそうになった。ガウディの目には何が写ってるんだろう。そして、その心境は……。


ところでグエル公園でガウディ一行がすれ違った日本人ってやっぱりイノタケさんなのかな?坊主頭だし…。


そして最後の、特大の和紙を使ったこの展覧会の(井上雄彦側の)目玉ともいえる絵。
これを見て「?」となる人も多いかもしれないけれど、私はなんというか、とても腑に落ちるものが描かれていた。
ガウディの死顔ではないか、と思える絵の次に登場するこれは、(この展覧会の第2部でもガウディの言葉として提示されていた)「独創性(オリジナリティー)とは、起源(オリジン)に戻ることである」という言葉の、まさに「起源(オリジン)」を描いたものだ。
輪廻転生、ではないと思う。なぜなら、ガウディはキリスト教徒だし、キリスト教にその概念はないから。
けれども、「生命のサイクル」とでもいうのだろうか。誰かが死ぬ一方で、どこかで新しい生命が生まれている。何かが枯れた後に、新しい生命が芽吹く。そういう自然のもつ「命を生みだす力」というか、人間の力を超越したもっと根源的な何か――それは突き詰めれば、老年期のガウディが傾倒していた「神」ということになるのだろうけれど――への畏怖と崇拝の念もこの絵から読み取れる気がする。
そして、もしかすると、ガウディの死と連続するこの絵は、ガウディの死後も、新たに生まれてくる次世代によって建築が進められるサグラダファミリアの在り方をも暗示しているようにも思える。
あぁ、イノタケさんがガウディのいう「起源」を描くとこうなるのか。
紙の大きさばかりが注目されそうな絵だけれど、これが井上雄彦の描くガウディの「創造の源泉」なのだ、と思うと、深い。
なんだか「最後のマンガ展」の終盤に出てきた一連の「母親」の絵とも通じるものがあるなぁ。やっぱりこれもイノタケさんの世界の一部なんだろうか。


とまぁ気づけばとりとめもなく長々と書いてしまいました。
でも最後に紹介されていた「栄光のファザード」の扉の日本語が、イノタケさんの筆跡だというのはこれまで知らなくてびっくりした!
おおぉ、ただやみくもにコラボしているのではなく、現実でもきちんとガウディとつながっている部分があったのね・・・!


あぁ感想書いてたらもう一度見に行ってもいいかなと思い始めてきた(笑)
とにかく初めに想像していたより面白くて深い展示で、ガウディデザインの椅子に座れたり、床を魚が泳いだりしていて、いろいろと面白かったです!


【おまけ】
5年以上前(自分でもびっくり!)の記事ですが、よろしければこちらもどうぞ。
辻風黄平について考察したりしてます。
バガボンドを読む」は(1)〜(4)まであるので、興味がある方はブログ内を探してくださいね。


バガボンドを読む(1)
http://d.hatena.ne.jp/himeichigo/20080821