INSTINCT MACHINEGUN

ポケモン好きのサンガサポ。夫はセレッソサポのパンダ氏。ゆるすぎる観戦記やら旅行記やら。

太宰治短編小説集「駆込み訴え」

前回放送時に見逃して悶絶し、それ以降ずっとずっと待ち望んでいた、NHK-BS「太宰治短編小説集『駆込み訴え』」を、やっと観ることができました。
この「太宰治短編小説集」は、その名の通り、太宰治の作品を、実写に限らず、影絵など様々な手法によって(時に大胆に翻案しながらも)表現しようという試み。
ちなみに私は『駆込み訴え』しか観ていません。あしからず。


以降ネタバレを多分に含むのでご注意ください。



  • はじめに

まず、『駆込み訴え』は実写でした。が、この作品を観た人は皆、まず第一にこう驚くでしょう。
「イエスもユダも現代の女子高生やないか!!!」と。
もうね、私もポカーンでしたよ。新年早々(放送は1月1日の0:30〜でした)脳みそグチャグチャにかき回されたような衝撃でした。


放送前に「香川照之が主演する」と聞いて、香川照之がイエスへの愛憎入り乱れた気持ちに悶絶するユダを演じるなんてうわあああああああなにこれ見たいいいいいい!!!と思っていた私の妄想はバッサリと切り捨てられました。
香川照之は実際はユダ役でも何でもなくて、映像と共に「駆込み訴え(の抜粋)」を朗読するナレーション的役割でした。(終わり頃に教師役として姿も見せますが。)
作品が始まる前、「太宰治短編小説集」のタイトルと共に、香川照之が読み上げた、「生まれてきて、すみません」の一言(これは全作品の冒頭に付けられています)。
この一言がもうそれだけでユダを表しているようで、私はこの一言だけでも満足できるくらいだったのですが、予想だにしない翻案ぶりに、そんな感動は吹っ飛びました。


一通り見て、見終わって、それでもまだ私は、「この作品はいったい何だったんだろう、どうして女子高生だったのか、果たして面白かったのか」と、とにかく何もわからなかった。
けれど、テレビを消して、自室に戻って余韻と共にいろいろと考えているうちに、じわじわとわかってきて、最終的には非常に的確な翻案だったと思うようになりました。

  • なぜイエスとユダが女子高生に置き換えられたのか?

まずこの作品は、「宗教色(キリスト教)を一切廃した『駆込み訴え』」とでも呼ぶべきものだと思いました。
監督の意図がどうだったのかは私にはわかりませんが、おそらく原作のまま、約2000年前のエルサレムの物語として描かれていたら、
私たちはこの作品を「おとぎ話」のような、遠いどこかの物語だと感じていたでしょう。
日本人にはあまり馴染みのない、キリスト教や聖書が題材となればなおさら。
それを西川美和監督は、イエス使徒を現代の女子高生に置き換えることで、『駆込み訴え』という作品や、ユダの葛藤や愛憎といった感情を、2000年前のおとぎ話ではなく、現代に通じるもの、現代にも存在するものとして、私たちの前に提示してくれました。
たとえば、百人一首に詠まれた和歌や、源氏物語を読んだ時、昔の貴族たちが、自分たちと同じような思考や感情を持っていることに気づき、驚くことがあると思います。
これと同じく、ユダの思いもまた、現代にも通じる感情なのだということを、この作品は大胆な置き換えを通してはっきりと示してくれます。


しかし、どうしてイエス使徒たちは「ボランティア活動をする女子高生のグループ」になったのでしょう。
まず、イエス使徒の関係は、家族のような血縁関係ではありません。あくまで他人同士の集まりです(厳密には、弟子の中には兄弟もいますが)。
かといって、ただの仲良しグループでもありません。
グループ内には上下関係は存在しますが、会社や部活動のように、年齢や役職で厳しく定められたものではありません。
そもそもお金儲けや勝利は目的ではないので、これらには当てはまりません。
そして「イエスとユダは同い年」という、原作の記述。
これらを考えると、「学生のボランティアグループ」に落ち着くのは自然なことでしょう。


しかし、どうして女子高生だったのか?
ここでは男子学生という選択肢もあったはずです。そもそもイエス使徒は男性なのですから。
若くて美しさを兼ね備えた男子なんて、ジャニーズ事務所にいくらでもいますし、たとえ現代人に置き換えられても、「美しいイエス」の姿は男子でも表現できたはず。


いや、表現できないのです。
表現できない、という言い方は適切ではありません。男子でなく女子だったからこそ、より『駆込み訴え』のイエス像に近い表現ができたと思うのです。

  • 「群れる」女子と使徒たち

まず、男子に比べると、思春期の女子はよく「群れる」と言われます。
何をするにもグループ行動、グループからはみ出したら学校生活を送れない。女子にはそんな傾向があると言われます。
(綿谷りさ『蹴りたい背中』の主人公も、グループに入りきれず生きづらさを感じる女の子でした。いじめをテーマにした、すえのぶけいこの漫画『ライフ』にもグループ行動の難しさは描かれています。)
「グループ」内での身の振り方の難しさや派閥争い。そして、「自分の存在意義」への悩み。
『駆込み訴え』に描かれている使徒たちの姿は、グループに属する現代の女子と共通する部分が多いです。


『駆込み訴え』で描かれるイエスは、若々しくピュアな存在です。
ユダはイエスを評して「子供のよう」「まだ若い」、そして「美しい人」「光るばかりに美しい」と言います。
『駆込み訴え』のイエスは、多分に女性的なのです。
若く、純真さを持っている。それでいて、どこか悟ったようなところがある。
美しく、そして、もろい。
こう考えると、イエスが大人になりかかった少女(女子高生)の姿となったのは、もはや必然のような気もします。


そういえば、私はこの作品を見て『女生徒』の主人公を思い出しました。
豊かな感受性を持ち、美しく純粋に日々を生きる主人公に、イエスの姿が重なります。
かと思えば、思春期相応に自分の存在や将来に悩み、どこか自分が周りとは違うと感じている。そんな「ユダ」の姿も『女生徒』の主人公は持っています。

  • 「穢れたイエス」の表現

そして、イエスが男性から女性となったことで、活きたというか、決定的に変わったシーンがひとつあります。
それは、原作の「ベタニアの香油の女(マリヤ)」のくだりです。
このくだりでは、ユダはイエスがマリヤに恋をしたと思い込み、激しい嫉妬と失望を覚えます。
もちろん、マリヤは男子高生に置き換えられているのですが、原作とは違う部分がもうひとつあります。
それは、イエス(役の女子高生)とマリヤ(役の男子高生)が肉体関係を持つということです。


原作では、果たしてイエスはマリヤに本当に恋していたのかはわかりません。ユダの思い込みだった可能性があります。
しかしこの作品では、はっきりとイエスとマリヤが肉体関係を持ったこと描かれています。
ここで、イエスが女子高生となったことが活きてきます。
仮に原作と同じ34歳の男性イエスが女性と性的関係を持ったとしましょう。
クリスチャンにとっては阿鼻叫喚の大騒ぎで、国が国ならこの作品が放送禁止になるところでしょうが、日本人である私たちは正直アラサーの男が肉体関係持ったところで「で?」という感じでしょう。


しかし、これが女子高生だったらどうなるでしょうか?
若く純真無垢な少女が、男と性交しているのを目撃してしまった。
これならユダが失望するのもわかるというものです。
伝統的に、女性には男性にはない「処女性」とう観念が付随しており、「処女=清い」「性交=穢れ」という概念も存在します。
(例えば、巫女には処女であることが求められてきた文化が存在します。)
原作では、ユダの憤りの原因は単なる勘違いだったのかもしれませんが、この作品ではイエスが「穢れた」という確たる証拠をユダは見せつけられます。
この演出により、ユダの嫉妬と失望は、原作よりも生々しく、はっきりと表現されているのです。


さて、「なぜ女子高生?」という問題はこのくらいにして、その他思ったこと。

  • 社会的に抹殺されるイエス

さすがに現代が舞台では、イエスを「物理的に殺す」ことはできません。
なので、イエスである女子高生は、不祥事を撮影した動画を提出するという告発方法によって、「社会的に抹殺」されます。
これはいかにも現代社会を表してるなーと思う反面、別におかしくはない、物理的に殺す必要はないと感じました。
というのは、2000年前のエルサレムでも、イエスの磔の目的は、「イエスの命を奪うこと」ではなく、「イエスの布教活動を阻止すること」、つまりイエスを社会から抹殺することだったからです。
十字架に磔にするという刑は、当時は政治犯に対して行われていた(よってイエス政治犯として裁かれた)ということは近年の研究において明らかになっていますし、つまりイエスは「社会的に抹殺したい人物」だったのです。
「殺す」以外の社会的制裁方法が存在する現代ならば、もしかするとイエスは殺されることはなかったのかもしれません。

  • エスは本当に言葉を発したのか

話は変わって、イエスの言葉に関する演出について。
この作品では、イエスの言葉やユダの感情は、ナレーションによって読まれる原作『駆込み訴え』の文章(の抜粋)で代弁されます。
しかし、ナレーション(香川照之)によって声に出して読まれず、黒い背景に白字で、文字として書かれたイエスの言葉が3つあります。それは以下の言葉です。

「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢とに満つ。」(神殿での言葉)
「みんなが潔(きよ)ければいいのだが」
「その人は、ずいぶん不仕合わせな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」

一番目は置いておいて、あとの二つはイエスがユダを否定する、非常に重要な言葉です。
「みんなが潔ければいいのだが」という言葉の後、ユダは「はッと思った。やられた!」と感じ、震えると共に、「ちがう!ちがいます」とショックを受けます。
同時に、ユダの「裏切ろう」という気持ちが、決定的になる場面です。
自分は改心していたのに、イエスは気づいてくれなかった。自分を理解してくれなかった。
それがユダに決心をさせた決定的一言だったのか、と私は映像として見て初めて、強く感じることができました。


ここでひとつの可能性があります。
原作では、この3つの言葉は、イエスの発言としてはっきり書かれていました。
しかし、この作品では、「文字」として提示されるだけ。声に出して読み上げられる、他のイエスの台詞とは違っています。
こうは考えられないでしょうか。


もしかすると、この言葉は、実際には発せられていないのではないか?
ユダがそう感じ取っただけではないのか?と。


前述のマリヤとは逆転した演出ですが、この演出により、ユダの思い込みという可能性が生まれ、見る者は考えさせられます。

  • 終わりに

長くなりましたが、このくらいにしておきましょうか…。
最後の「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」のところで、「あぁ、この子はユダだったのか」と妙に感慨深くなりました。
確かに原作では、語り手がユダということは(途中でバレバレですが)最後まで明かされません。
しかし『駆込み訴え』という小説が「ユダが主人公の短編」としてあまりに有名になってしまったため、私たちは読む前から既に「語り手=ユダ」と考えて読んでしまいます。
そんな現状だからこそ、ユダが女子高生となったことで、この最後の一文が生かされます。
私たちは、画面の女子高生たちを見ているうちに、ユダから思考を切り離すことができる。
そして、最後の一文を聞いて「あぁ、語り手はユダだったのか」と思える。


斬新な演出でしたが、物語の要点が伝わりやすく描かれていて、良い作品だと思いました。