INSTINCT MACHINEGUN

ポケモン好きのサンガサポ。夫はセレッソサポのパンダ氏。ゆるすぎる観戦記やら旅行記やら。

「崖の上のポニョ」について考えてみた

久々に更新しといてまたサッカー以外の話かよ!というツッコミがきそうですが…
Twitterにもちょこっと書きましたが、「崖の上のポニョ」を初めて観たので、感想(考えたこと)をつらつらと書いてみようと思う。
先に断っておくけれど、長いです。すみません。
ネタバレ注意。


まず、「ポニョ」については、公開当時ネット上で賛否両論だったり、「意味がわからない」「面白くない」という意見多数だったのを見てたので、
この前の金曜ロードショー(の録画。正確には。)で観る前には、「本当に面白くなかったらどうしよう」と一抹の不安を抱えていたりした。
そして実際観てみると、一緒に観ていた母上は、しきりに「意味がわからない」と言っていた。
でも私は、「とりわけ面白い」とまでは思わなかったけれども、「意味がわからない」とは思わなかったし、それほど苦痛を感じることなく、物語の展開についていけた。
これはどうしてだろう、と考えた結果が、以下のとおり。


まず、「ポニョ」の舞台について。
「ポニョ」の舞台は、「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」のように、異世界(めいた世界)ではないし、
千と千尋」のように、現実世界の住人が、ある日突然異世界へ迷い込んでしまう物語でもない。
「ポニョ」の舞台は、我々が今住んでいる現実世界と完全に酷似している。
そう考えると一番近いのは「トトロ」なんだけれども、トトロと触れあい、その力を目にすることができるのはごく数人なのであって、大多数の住人(登場人物)は、超自然的な力の影響を受けることなく生活している。
宮崎アニメにおいて「ポニョ」が特異なのは、

  • 物語の舞台が現実世界(現代社会)と酷似している
  • 現実世界と異世界が完全に融合する(現実世界が異世界に飲み込まれる)
  • 物語世界の住人(登場人物)全員が、超自然的な力の影響を受ける

という3点であり、この3点に宮崎駿が初挑戦した作品とも言えるのである。
そして舞台が現実世界と酷似している分、そこに非現実の要素をうまく混ぜ込むのは難しい。


とりわけ、「ポニョ」の終盤(水没後)の展開は、「トンデモ展開」と言っても過言ではないような、常識では考えられない突飛な展開である。
「ポニョ」の物語世界は、非常に現実的なものから、常識を完全に逸脱したものへと変貌するのである。
それを考えると、「ポニョ」の展開についていけるかどうかは、
観る側が「物語の進行と共に、徐々に常識の世界から逸脱できるかどうか」にかかっていると思う。


「ポニョ」のストーリーは、大きく3つに分けられると思う。
(1)ポニョが人間になる前(台風の前)
(2)ポニョが人間になった後(台風の真っ最中)
(3)水没後(台風の後)
の3つである。
そして、物語が(1)から(2)、(2)から(3)の段階へ進む時点では、飛躍的に「非現実」のレベルが上がる。


(1)の部分では、まだそれほど不思議なことは起きておらず、人々は普通に日常生活を送っている。変わったことといえば、怪しい容貌のフジモト(ポニョの父)の出現くらいである。奇妙なことや違和感を感じる出来事も内包されているものの、まだ常識的な考え方でストーリーを追えるレベルである。
(2)の部分では、ポニョの力により、奇妙な台風が出現し、「超自然的な出来事」が起き始める。ポニョの魔法の影響を直接受けているのは宗介とリサ(宗介の母)に留まっている。が、徐々に不可解なことが起き始め、ついていけない層にとっては「わからない」と感じる部分が増え始める。
(3)の冒頭で、現実世界が異世界に飲み込まれる。住人全員が超自然的な現象の下にある。物語が一気に常識の世界から逸脱する。ついていけない層は完全に「わからなく」なる。


こう考えると、「ポニョ」は、冒頭からわけのわからない世界観では決してない。
「常識からの逸脱」は、ちゃんと段階的に行なわれているのだ。
この段階に合わせて、徐々に常識的な思考を捨てることができれば、観客は「ポニョ」をそれなりに楽しめる。
それができなければ、物語についていけず、置いてきぼりをくらってしまう。
「ポニョ」はそういう映画だと思う。


ここで、(1)(2)の段階で、観客が常識を捨てるのを手助けする存在が、リサだと思う。
リサは、とてもパワフルで型破りな人物だ。
宗介は、そんな母親であるリサを、「リサ」と呼び捨てで呼ぶ。父親のことも同様に「コウイチ」と呼び捨てにしている。
また、リサの車の運転の仕方はムチャクチャだ。暴走といっても過言ではない。
とにかくリサは、一言でいうと「常識はずれ」な存在なのだ。
「両親を呼び捨て」「交通ルール無視」の状態がまかり通っている時点で、この物語についていけず、脱落してしまう人もいるかもしれない。
しかし我々観客は、まずリサを通して「常識的な考え方」を捨てるよう促される。


他にも、細かな部分で、常識と照らし合わせると「?」と思うような物事は散見される。
一例を挙げれば、「宗介が海の魚であるはずのポニョを水道水に入れる」「リサの無謀な運転にもかかわらず、車内でバケツの水がこぼれない」などなど。
観客は、このような細かい違和感をいちいち気にしていては、物語についていけない。
違和感の積み重ねにより、やがて観客もまた気づくのである。
「この作品は、常識や固定観念を捨てなければ楽しめないのだ」と。
先にあげたシーンを見て、いちいち「それはありえない」「不可能」「だめ」とか、考えてはいけないのだ。
そしてそれは、「ありえない」「不可能」という判断の元になったもの、つまり「常識・固定観念・先入観」といったものをいったん捨てて初めて可能になるのである。
こうして常識からの脱皮に成功した観客は、(3)の段階に入っても、トンデモさから生まれる疑問に押しつぶされることなく、ストーリーに沿って羽ばたいていける。


リサの台詞で、印象的なものがひとつある。
リサは初めてフジモトと遭遇し、会話した後、宗介に向かってこう言う。


「なによ? あの不気味な男・・・なんて言っちゃダメよ。人は見かけじゃない。」


これこそが、この映画を象徴する言葉なのではないかと思うのだ。
常識的に考えれば、「不気味な外見=あやしい、よくない人物」だろう。
しかしリサは、宗介に、そして観客に、そのような常識を捨てるよう促す。


私は「ポニョ」を観た直後、
この物語についていけるのは、「変な展開が起きてもたいして気にしない」か、「説明がされなくてもそれを脳内補完できる」*1タイプの人間だけだろうと思った。
(ちなみに自分は後者である。)
どちらのタイプも、「起きたことは起きたこととして許容できる」、そして「起きたことをいちいち立ち止まって考えたりしない」という点では共通している。
そしてそれは、ポニョが人間の姿となって突如現れても全く動じないリサや、街が水没しても平気な顔をしている住人達の姿そのものである。


「ポニョ」には、理由付けのされない出来事、というものが多々登場する。
水没の一件だってそうだし、何故フジモトは人間であることをやめて海の世界の一員になったのか、何故「ひまわりの家」のおばあさんたちは歩けるようになったのか、など、その理由があえて説明されていない出来事は多い。
それが起きた背景が説明されない出来事。
そこにあるのは、単に「それが起きたという事実」のみである。
観客に提示されるのは、「そのこと」自体、「そのもの」自体のみ。
観客は、「そのこと」自体、「そのもの」自体だけを見て、その「こと」「もの」を判断しなくてはいけない。


「ポニョ」の登場人物たちは、直情型だ。
自分の感情が、そのまま行動に直結している。
リサは、たとえ暴風雨と津波の中であろうとも、「家に帰りたい」と思えば、無理やりにでも帰る。
そして、「ひまわりの家が心配だ」と思えば、宗介とポニョを残してでも、家を留守にする。
宗介は、「ポニョが好き」という感情だけで、ポニョと一緒にいたいと思う。
リサが心配だと思えば、水没した街へと船で向かう。
彼らは、「こうすると危険じゃないのか」「死ぬんじゃないのか」とは考えない。
「ポニョは親元に帰った方がいいのでは?」とは微塵も考えない。
そこでは、倫理観すら放棄されている。


彼らは、立ち止まって考えることは、しない。
常識や、固定観念や、先入観にとらわれない。
目の前にある「もの」「こと」のみを見て判断する。
そして、自分が直感的に「是」と思ったことのみをする。


物語の最後、宗介は「魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョも、みんな好き」と言う。
彼にとって重要なのは、「ポニョが好き」だという自分の判断のみなのである。
魚だからどうとか、そういう先入観は皆無なのだ。


先入観や常識には、とらわれてはいけない。
信じるべきなのは、物事を実際に目にしたときの、自分の純粋な感情や判断である。
輪廻転生とか、そういう難しい考察をしている人も多いみたいだけど、
宮崎駿が言いたかったのは、こういう単純なことなんじゃないかなぁ、と私は思う。


「ポニョ」は、観客はみな「常識からの脱皮」ができるだろうという想定のもとに作られている。
逆に、それができない観客は、物語を楽しめない。
これは一種のメタフィクションなのではないだろうか。
うがった言い方をすれば、この作品のわけのわからなさ自体が「ポニョを観て楽しいと思いたかったら、常識にとらわれない人になってね」というメッセージというか、「ポニョ」を観ること自体が常識を捨てる訓練的なものとして位置づけられているのかもしれない。


少しだけ閑話休題
ここまでで述べてきた「理由づけの排除」は、言い換えるとまぁ「説明不足」なわけだけど、
この「説明不足」の傾向は、前作の「ハウルの動く城」から存在していたと思う。
たとえば、魔法で老婆に変えられたソフィーは、物語が進むにつれ、頻繁に「若返り」を起こす。
しかし、どうしてソフィーがしばしば「若い姿」に戻るのかは、作品中において「言葉」では説明されていない。
カカシに関する最後の展開なんかもそうで、この「説明不足」が一因となって、「ハウル」に対してもまた「わからない」「話についていけない」という感想が散見されたし、実際に私も「わからない」と思っていた。


カカシについてはどうなのかわからないけれども、ソフィーの外見の入れ替わりについては、「心の年齢が外見に出る(よって気持ちが昂ったときに外見が若くなる)」という見解があるらしい。
そう考えると、この謎に関しては、画面上では「気持ちが昂ぶれば若くなる」という公式は提示され続けていたわけで、「全く説明されていない」というわけではない。
単に「言葉で説明されていなかった」だけ、ということになる。


今作で「ハウル」で言うソフィーの外見と似た「説明不足さ」を持っているのが、これまたポニョの外見に関することであり、
作中では、「どうしてポニョはしばしば半魚人の姿に戻るのか」「どうしてポニョはすぐ眠くなるのか」という謎に関する答えは、言葉では明確に説明されていない。
(ちなみにこの謎に関する答えは、Wikipediaにある。)
こういうことを考慮に入れると、もしかすると宮崎駿は、「言葉」での表現(説明)を捨て、「絵」もしくは「アニメーション」による表現(説明)に重点を移すようになったのではないか、と私は想像してしまう。
宮崎駿はまさに、「バガボンド」における井上雄彦と同じ道を選択し、歩んでいるのではないか、と。
アニメと漫画という違いこそあれ、彼らは「絵」で作品世界を表現する創造者である。
2人の天才が行き着いた道は、同じだったのだろうか。


もし、「ポニョ」のこの独特な作風が、宮崎駿自身の「アニメ観」の変化によって生み出されたものならば、
もう昔のような作風の「宮崎アニメ」はこの先ずっと製作されないかもしれない。
井上雄彦が、「バガボンド」を昔の作風に戻すことがおそらく不可能であるのと同じように。*2


でもね、やっぱり「ハウル」のような、いわゆる「ハイ・ファンタジー」の物語で、「説明不足」なのは致命的だったと思う。
たぶん、宮崎駿自身もそれを感じたから、「ポニョ」は童話寄りの、単純な話にしたんじゃないかなぁ。


まぁ結局何が言いたかったかというと、フジモト最高ということです。

*1:「ポニョ」は「空想の余地のある物語」といってもいいかもしれない。もしかすると子どもの空想を促す意図があるのかもしれないが、そこは今回考えずに置いておこうと思う

*2:どうしてそんなに井上雄彦と同一視したがるのか、と思われるかもしれないけれど、なんだか似てると感じてしまうんだよなぁ。最近の作品が「わかりにくくなった」と評されてる点もそうだけど、アクションやバトルといった要素から、精神的なものに表現の中心を移行していってる点とか。